「ラッキー」って、本当は誰の中にもある感覚だと思う

流れに身をまかせる言葉

今日のポジティブワードは、「ラッキー」。

この言葉って、明るくて、ちょっと軽やかで、
言うだけで気分が少し上がるような響きがありますよね。

でも、心が疲れていたときの僕は、
誰かの「ラッキーな出来事」を聞くと、正直うらやましくて、
少しだけ苦しくなることもありました。

「自分にはそんなこと起きない」
「運がいい人は、もともと持ってるものが違う」
そう思い込んで、どこかで“ラッキー”を遠ざけていた。

でもある日、ふと気づいたんです

それは、外を歩いていたときのこと。

信号がタイミングよく青に変わって、足を止めずに進めた。

そのとき、なぜか「ラッキー」と声に出してみたんです。

ほんの些細なこと。
でもその瞬間、ふっと肩の力が抜けた気がしました。

「あ、こんな小さなことでも、ラッキーって思っていいんだな」って。

ラッキーって、“受け取る角度”を変えるだけで見えてくる

それから少しずつ、
日常の中で「ラッキーだったかも」って思えることが増えてきました。

・お気に入りの席が空いてた
・売り切れてたはずの商品が再入荷してた
・空がきれいだった
・自分の好きな曲がタイミングよく流れてきた

どれも、他人にとってはどうでもいいことかもしれない。
でも、自分の中で「ラッキー」と思える瞬間って、
それだけで心の色が変わる。

心がしんどいときこそ、「ラッキーの種」を見逃しやすい

心に余裕がないときは、
ラッキーの存在を感じるアンテナがうまく働かなくなる。

でも、それは自分がダメなんじゃなくて、
ただ少し、感度が下がってるだけなんだと思う。

だから、まずはほんの小さなことでも、
自分で「これはラッキーだったな」と声に出してみること。

それが、もう一度ラッキーを“受け取れる自分”を取り戻す
最初のステップになるんじゃないかなって思っています。

まとめ:「ラッキー」は、拾う心があれば誰にでも起きる

ラッキーは、ただの偶然かもしれない。
でも、それを「ラッキーだ」と受け止めることができるかどうかは、
たぶん、自分次第なんだと思う。

だから今日、もしどこかで
少しでも嬉しいことや救われることがあったなら――

それをちゃんと「ラッキー」と呼んであげてください。

もしかしたら、それは
「今日も生きててくれてありがとう」っていう、
何かからの小さなメッセージかもしれない。

今日も読んでくれて、ありがとう。
あなたに、今日もひとつ、ラッキーがありますように。

このブログを書いている人

心が壊れそうになった10年前。
そのとき、僕を支えてくれたのは、たったひとつのノートでした。

ポジティブな言葉を、意味も考えず、ただひたすら書き続けたノート。
いつかどこかで、同じように苦しんでいる誰かがその言葉に出会えたらと思って、
今、こうしてこのブログを綴っています。

心が疲れたとき、
ほんの少しでも呼吸がしやすくなるような。
そんな言葉をひとつでも、届けられたらうれしいです。